ふと目が醒めたら雨音が心地良かった。多くの日本人が異世界にいるとき、ボクだけがこの世界で覚醒したような。ノスタルジックでクワイエットな感覚。感じ方ひとつで世界が変わるって、やっぱりおもしろい。
さて。
人は死ぬ。
そんなことを四六時中考えていると不安で何もできなくなるだろう。だから死ぬことは一切考えない、・・・というわけにはいかない。
死と対話することで、生が浮き上がる。
よりよく生きることと、よりよく死ぬことは、表裏一体であるからだ。
この話題をSNSに書くことを躊躇っていた。健常な人が見たら「暗いなぁ」という印象を受けるだろうと思ったからだ。
40歳になってから、世界が開けた。以前よりも別の視点を持てるようになったし、経験値も、考えられることも増えた。総合的に別のステージに移動したんだと思う。進化や成長というよりは、転移という言い方の方が正しいかもしれないし、その方がしっくりくる。
世界が開けたというのは、昨日よりも少しだけ目が開いたといってもいいかもしれない。
話を戻そう。
人は死ぬ。
死とは何かと考えると、人生とは何かにぶち当たる。避けては通れない、圧倒的な壁のような問い。
その壁を攻略しようと挑み続けて気付いたこと。それは自我だ。
我思う、故に我あり。
自分が自分であると認識できること。これがないと、死も生もない。身も蓋もないとはまさにこのことだろう。
猫は自分を猫と思っているのか?と言ったような問いに本人(本猫?)が答えられるかということである。
人は生まれた瞬間から自我を持っていない。2歳くらいから獲得するらしい。つまりそのくらいから人となる。ってことは、人は生まれながらにして人ではなくて、人を獲得するということになる。
これを考えていると、深層心理とか魂とかの存在はグラグラする。だって最初からあるわけじゃないから。もし生まれた瞬間から自我があるなら、魂はあると断言しやすい。生まれ変わりだって信じやすい。でもそうじゃない。
魂が魂を魂だと思えない時期が、転生条件として備わっているのかもしれない。仮になぜそうなのかと理由を考えればそのほうが魂に都合がいいからなんだと思う。
人間は4つの要素でできている。
体、心、脳、魂。
少なくとも、腸と脳は、別の生き物なんだと思う。そういう意味では、1つの個体に2つの生物が同居しているのが人間である。だから葛藤がある。
脳は起きていたい、でも体は寝たい。
どっちかに主導権を渡しすぎると健康を損なう、という仕組みもおもしろい。どっちかだけじゃ人間はいい状態をキープできない。
マックのフライドポテトを食べたい、でもお腹の調子が悪くなる。
これこそが1つの個体に2つの生物が同居しているという証拠になるんじゃないかなって。
となると、脳でもなく、腸でもない、今こうやって思考して判断してモヤモヤしているのは、いったい何者なんだろうか、と何者かは考えている。